海隣

平成17年 (2005)12月 かいりん 第2号

12月中旬
心光寺 びんずる様 開眼法要
皆様、おそろいでお参りください。

 

「信じる」ということ

 先日、ある高校の学校研修会で校長先生(この先生は浄土宗のお坊さんでもあります)が生徒に次のような問いかけをされました。「皆さんのご家庭の宗教は何ですか?神さま?仏さま?何を信じていますか。」この質問に生徒達は困惑していました。「○○宗です」と答える生徒も何人かはいましたが、「両親です」との答えや「特に何も信じていません」と答える子が大部分であったようです。中には質問の意味すらわからない子もいました。
  校長先生曰く「本来は、自分の信仰する宗教があるかないかで社会からの信用度が全く変わります。海外では、例えば仕事の商談に入る前に信仰に関わる内容の会話をし、相手の信頼度を測る位です。」と、日本人の宗教に対する意識の浅さを指摘していました。生徒達が自分の信仰すべき宗教がわからなかったのも無理もありません。それぞれの家庭で信仰に関する話題に触れることも無いでしょうし、お墓参りや仏事への参加が唯一宗教に関わる機会なのかもしれません。俗にいわれるように「お葬式は仏教で、結婚式は教会で、初詣は神社へお参りします。」という日本人が大多数であり、疑問に思うことすらないのかもしれません。「信じること」「信仰心」とは、何なのでしょうか。
  宗教を信仰する究極の目的は、人格の完成を目指すということです。人として生きていく上で切っても切り離せないものであるはずです。浄土宗の信者としては、ご本尊である阿弥陀さまを信仰する事がやはり大切なのです。「難しい理屈はわからないけれど、我が家はご先祖のお墓参りもしっかりするし、お仏壇にも毎日手を合せてますよ。」そうですそれが「信じる」ということなのです。お墓参りをしてご先祖に感謝する。南無阿弥陀仏、「南無(ナム)」とは「感謝する」「おまかせする」という意味がございます。ご先祖に、阿弥陀様に、全てに感謝する。お墓参りや毎朝のお仏壇への挨拶こそが信仰の表れなのです。難しい知識や理屈はいりません。手を合わせ、「ナムアミダブ、ナムアミダブ」お念仏申すことが浄土宗の全てなのです。
  「あなたの宗教は何ですか」と問われたら「南無阿弥陀仏のお念仏です」と胸を張って答えたいものです。「信仰」という抽象的な言葉を「南無阿弥陀仏とおとなえします。」とわかりやすく理解されては如何でしょうか。そして、浄土宗の信者としてその言葉通り、毎日の生活がお念仏の中で暮らせるようにしたいものです。

赤羽海衆・専称寺(埼玉県)

 

のんびりと・・・


【心光寺 びんずる様】

  近年、日本の文化は著しく発展し、物質的にも豊かにになり、またそれにともなって社会という大きな生活単位のなかにルールというものも充実・発展し続けているのであろうとおもいます。特に科学技術の発展などはめまぐるしいのではないでしょうか。パソコンや携帯電話などは、半年に一度のペースで新型が発売されているという現状なのです。このようなスピード社会のなかで我々はついつい自分を見失ってしまうということも少なくはないかとおもわれてなりません。
  先日、テレビで日常生活のなかでのマナーのわるい人が増えているとのことで、そういった人を注意しましょうという番組が放送されておりました。それには芸能人も出演しており、普段は面白おかしいことでお茶の間を沸かせている人たちが注意するわけですからどのようなものかと見入ってしまいました。その一つに駐車場の利用マナーについてということがありました。それは、ある公共施設の無料駐車場に3台の車が待ち合わせをし、そこから1台の車に乗り合わせて半日以上無断駐車しているということでした。関係者の話によるとその様な利用者が最近増えており実際にそこを利用する人々が駐車できなくなって迷惑しているということです。実際に無断駐車をしているひと達に注意をするとみな決まって「自分だけじゃないだろう! 他にも同じことをしているひともいるだろう!」などと子供のような言い訳をし、挙句の果てには自分の行いを棚に上げて「お前に言われる筋合いはない! 何様なんだ、名を名乗れ!」といったいわゆる逆切れ状態でした。子供のころ冗談で言っておりました「赤信号、みんなで渡ればこわくない」じゃないんですから・・・。
  他人がしているから自分もいいだろうではなく、「人の振り見て我が振り直せ」という故事がございますように、ひとの誤った行動は真似をするのではなく自分の鏡として自分を磨くためにとしたいものです。
  人の生き方には、自分に厳しい人と他人には厳しくて自分には甘い判断をしている人の二つがあるそうです。ひと昔前の親は「他人様に迷惑をかけるような生き方だけはするな」などと我が子にしつけていたように思います。私たちは自分一人だけで生きているわけではありません。自分自身が今ここに存在するのには親があり更にさかのぼりご先祖さま代々の生命のつながりがあり、また大自然の生命をいただいてそれらすべての「おかげさま」によって生かされ続けているのです。それにもかかわらず、ついつい自分よがりの考えで行動をしてしまいがちです。
  めまぐるしい社会にのっている私たちではありますが時々は自分のスピードをすこし緩めてのんびりと、そんな身勝手な自分自身の存在を見つめなおすためにも仏さま、ご先祖さまに会いに行ってみてはどうでしょうか。南無阿弥陀仏とともに。

柴田祥宏 宝国寺

 仏教の自習時間

 仏典を感じる?

 世界的数学者である岡潔に若い僧が「先生、仏典のような、壮大な世界はあるはずがないですよね?」と聞いたそうです。急に先生の顔がけわしくなり、先生は「モーツァルトの曲の中にも無限の空間が広がっているのですよ・・・、今の質問は僧として最も恥ずべきことではないですか」といわれたそうです。これは奈良県五條市で仏教会をされていた梁瀬義亮の本に紹介されていた話です。梁瀬先生は五條市のお寺に生まれ、京都大学をでて医者をされながら自宅で仏教講義をしていました。わたしも行かせていただきましたが、月1回の講義にはたくさんの人が集まり、僧侶の姿もめずらしくありませんでした。先生の法話は難解でしたが、仏教の教えを次元で説明されました。先生には失礼ですが、私なりに勝手に解釈させていただくと、たとえば毛虫が道路をモコモコ横断しているとします。もしかしたら車にひかれてしまう・・・?2次元の生物?である毛虫にそれはわからない。しかし二次元より上の生物、人間から見ればそれがわかる。しかしその人間も、人間より上の次元の世界は認識できない。しかしいまや5次元以上の世界があることが証明できるようですから、人間の五感の認識能力にも限界があることがわかります。そこで先生が一番心配されたことは、認識能力に限界がある私たち人間が、自分の考えや見たことだけが一番正しいと思い込み、自己中心的になっていくことでありました。先生の願いはこのような無明な生き方から、仏陀(日本の各仏教祖師も含めて)の教えを信じ実行して、真理にもとづく平和な社会になってほしい、ということだったのではないでしょうか。
  はるかかなたから、多くの人々が命がけで仏陀の教えを伝えようとしました。ましてそれが日本までもたらされた仏典には、今、このときにも存在している高次元空間の世界が説かれているのではないでしょうか。
  あるインドの聖者が言いました。「探し求めなければいけないような真理は真理ではない。それは今すでにあるものである。」
  仏教を理解できなくても、信仰を通じて仏典の世界を感じることができるのではないでしょうか。

心光寺住職 宗川太洋


【行事予定】

平成18年
2月 8日 吉水講例会
3月 8日 吉水講例会

「びんずる様」(なでぼとけ)

  今から2500年ほど昔のインドの国に「びんずるさま」という修行者がおりました。
「びんずるさま」は仏教をひらいた「おしゃかさま」の弟子の一人で十六羅漢の筆頭として、神通力に優れている羅漢さまでした。
  その様なびんずるさまではありましたが、なんと大のお酒好きで、おしゃかさまに止められていたにもかかわらず、修行の合間にお酒を飲むようなことが続き、びんずるさまはとうとうおしゃかさまのもとを放り出されてしまいました。
  おしゃかさまの側での修行ができなくなったびんずるさまは悩み、後悔をしましたが
一大決心し、いつしか困っている人々を救おうと独りでの修行を続けました。
  この姿におしゃかさまも本堂の外陣でならと修行を許可してくださいまして今でも、 赤いお顔で本堂のぬれ縁などに独り座っておられます。
  そして、善男、善女がこのお像をなでた手で自分の体をさすると病気が治り頭もよくなり節々の痛みも軽くなるといわれ、深く信仰されてまいりました。

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