海隣

平成18年 (2006) 5月 かいりん 第3号

6月10日(土)
心光寺 別時念仏会
別時念仏会とは日頃のお念仏とは別に、特に日時を決めましてお念仏をお称えする法会です。

 

「法然さまのお念仏」

 先頃、紀伊の国和歌山にあります「報恩講寺」というお寺へ参拝致しました。法然さまゆかりのお寺として、法然上人二十五霊場にも数えられているお寺です。法然さまは浄土宗をお開きになられた後、当時の既成仏教からの風におされ、悲しくも朝廷より四国の地へ流罪の命を受けていますが、流罪が解けたあと最初にたどり着いたのがこの報恩講寺です。今となっては徳島からフェリーで二時間程度の船旅ですが、当時は四国から紀伊水道を手漕ぎの小さな船で渡るしか術はありませんでした。何日間も風雨にさらされ、浜に漂着されてやっとの思いでこのお寺にたどり着いた様子を住職が語ってくれました。浜のすぐそばに建ちますお寺をお参りし寒々しい海を眺めますと、流れ着いた当時の法然さまの哀れなお姿がまじまじと浮かんでくるような気が致しました。法然さまは疲弊しきった身体で、尚もお念仏のありがたさを土地の人々にお説きになったとの事です。お念仏の教えを広める為、命を削ってまでも念仏信仰の教化に専念されたのです。
  このように法然さまが訪れた各地にお念仏のありがたさを感じる信者がたくさん現れました。法然さまは念仏信者の心持ちを三種に確立され示されました。平生に日々絶えずお念仏申す日課称名の勤め「尋常念仏」、臨終の際に申す「臨終念仏」、そして特別の道場や期間を設けお称えする「別時念仏」です。お念仏は常に絶えず申すのが大切です(法然さまは一日六万遍お称えしたそうです)。でも時には機会を設け「別時念仏会」としてまとめて申すことが、日々のお念仏を進ませるきっかけにもなるということです。
  以前、ご縁があり鎌倉の大仏さま前での別時念仏会に参加いたしました。大仏さまの前ですので当然屋外での念仏会です。「ナムアミダブナムアミダブ・・」ただひらすらお称えするうちに夜空に浮かぶ月が目に入りました。光々と照る月にどうしたわけか自然の偉大さを感じ、己の無力さ、はかなさを感ぜずに入られませんでした。そして、法然さまが示されたお念仏は八百年の永きに亘り、大自然の中の月同様に変わることなく、現在も存在していることのありがたさが伝わってきたのです。言葉では説明出来ずとも素直に身体がお念仏のありがたさを感じました。
  お念仏申すことに目的は存在しません。ただ「ナムアミダブ」とお称えすることが大切なのです。ありがたい教えを示された法然さまに感謝の念を奉げると共に、別時念仏会という良い機会もございます、日々のお念仏をお称えしていきたいものです。

(赤羽海衆・専称寺・埼玉県)

 

身を捨て幼児を救済した良我上人雲月(一)


心光寺 現本堂
(建設中・昭和20年頃)

     
  江戸時代の中頃、八代将軍吉宗の治政、心光寺十三世良風上人湛應の代である享保十七年(一七三二)二月、心光寺に一人の若者が弟子入りした。彼は小名西町村の清太郎の二男である百之助で十二歳であった。師である良風上人湛應鎮誉月観はその字号にちなみ彼に雲月の字号をあたえた。
  すでに良風上人の門弟には、後に本寺如来寺の三二世住持となった良正上人聴應、先住であった善導寺(現二本松市?道)の在住期に入門した良三上人諦應らの兄弟子がいた。のちに弟弟子に小名米野村宇左衛門の次男である察應(後の能満寺二一世真蓮社良恩上人である)がいる。
  雲月が誕生した享保六年(一七二一)の以前である享保二年春、磐城にも江戸でも関東一円に疫病が大流行し、五月の田植時であったので田植ができぬ村が続出、遅れて全領内の村人が助け合って行ったほどであった。特に彼が生れた小名四ケ村の疫病の被害は大きくその死亡者が三〇〇人を超えたという。そのため小名米野村の浄光院祐栄法印は犠牲者の冥福を祈るため三回忌にあたる同四年七月に銅造宝筺印塔を建立している。もちろん心光寺においても同年、十一世往蓮社良経上人大通も三回忌の供養を行っている。
  雲月の生涯二九年の間、磐城を次から次と伝染病、大雨による洪水、大火、早魃、虫害、大不漁とあらゆる災害が毎年のように襲った。こうした暗い世相のなかに生涯をおくった僧としての雲月はどのように思ったのであるだろうか。
  師良風上人の門弟となって師より浄土の宗学の手解きをうけてから、名越派の檀林寺である専称寺に入門、そこで勉学に励んだようだ。そうした苦労のなか天文六年(一七四一)弱冠二十歳のおり、藩主内藤家の菩提寺である善昌寺境内にある藩主歴代が眠る御霊屋の守(墓守)に任命されるという大抜擢をされたのである。この御霊屋守の職は、勉強をしながら専称寺での夏・冬の両安居(あんご)(四十五日を夏冬の二度、集中的に浄土宗などの仏教の教典を合宿して学ぶこと。十五年学び僧侶の資格を得ることができる。)を一度出席することができるという好条件であった。
  当時師の良風上人は心光寺より本寺如来寺に転住(元文二年十一月、心光寺の住職より直接本寺に昇進のはじめ)して活躍中であったので師の推選だとおもう。
  善昌寺は慶長五年(一六〇〇)創建、現在の平の良善寺が遺跡で明治三年(一八七〇)廃寺となった。当時の住職は見誉上人俊我で雲月の前々任者も前任者もすべて見誉上人の門弟であったが、門弟でない彼が襲任したことは特筆されることだ。
  まもなく御霊屋守から善昌寺の寺務を行う責任者である役者を兼務している。こうして善昌寺の仕事のかたわら専称寺での安居(あんご)を続けていたようだ。そうした仕事を延享元年(一七四四)三月まで続けていた。

(佐藤孝徳・いわき市文化財保護審議会委員)

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ご案内

 この度、心光寺におきまして別時念仏会を左記の要項にて行います。
  別時念仏会とは日頃のお念仏とは別に、特に日時を決めましてお念仏をお称えする法会です。
  今回は、総本山・知恩院布教師であります長崎教区、長徳寺・日下部匡信上人にご法話をお願いいたしました。
  皆様、どうぞお誘いあわせの上ご参加され尊い仏縁を結んで頂きますようにご案内申し上げます。

合掌 心光寺住職 宗川太洋

期 日
  平成十八年六月十日(土)
冥加料金
  千円(食事代含む)
携行品
  袈裟・数珠
 *(お持ちでない方は、こちらで準備致します。)
申 込
  お電話またはお寺にて直接お申込ください。
  電話0246(54)3506
回 向
  故人の追善供養をご希望の方はお申込ください。

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【行事予定】

平成18年
4月 12日   弁財天祭り
4月 27日   心光寺総代会総会
5月 8日   吉水講例会
6月 10日 別時念仏会 長崎教区長徳寺 日下部匡信 上人
      兵庫教区慶光寺 日下部謙旨上人
7月 8日   吉水講例会
8月 9日   心光寺永代供養墓供養祭
      心光寺施餓鬼会
9月 8日 吉水講例会

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卒塔婆(そとうば)
 
  卒塔婆とは現在では塔婆と言う方が多いようですが、その語源は、梵語のストゥーパを音写したものであります。
  もともとは「高い部分」、「頂き」と言う意味で、仏教ではお釈迦様やそのお弟子の舎利(遺骨)、遺髪などを埋めた上に土石を高く盛った土饅頭型の墓をいうようになりました。そしてまた、奈良や京都で見られる五重塔はその変形であり、塔婆一本立てることは、五重塔一基を建立するのと同等の功徳があるとされております。
  私たちは、先立たれたご先祖様の追善供養の為に年回法要(法事)をお勤めし、墓前へ香華、供物、を奉げ塔婆を立てておりますが、法事とはそもそも「自ら仏さまの教えを修行する」という意味であります。ですから浄土宗では御本尊であります阿弥陀さまの名号をお称えすることが一番の修行となる訳です。法要の後、塔婆を立てる際はご先祖さまへの感謝の気持ちを込め、声をあげてお称えください。
  「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏・・・」と。

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